日々の活動やニュースに対する考え、視察の報告などをブログにまとめています。

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神谷宗幣 (かみやソウヘイ)

最近の動向の記事一覧

インド視察 (平成25年11月10日~18日)

最近の動向 |

毎年恒例の龍馬プロジェクトの海外視察に行ってきました。

プロジェクトの公式な海外視察は

ドバイ  ②台湾  ③マレーシア&
シンガポール
  ④アメリカ

に続いて6カ国目となります。 続きを読む

出雲紀行 政治家と政 日本の成り立ち

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インドから家にもどり、4時間休んで出雲にきました。

今日はCGSでもお世話になっている表ひろあき先生の導きで、龍馬プロジェクトの仲間と共に旧暦の神在月の出雲を回らせて頂きました。

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まずは須佐之男の終焉の地と言われる須佐神社に。
龍馬の仲間は参拝の作法を教えてもらいました。

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続いて龍頭ケ滝で禊。
雪の降るなかの禊でなんだが新境地に達した気がしました(笑)

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続いて出雲国一ノ宮の熊野大社で正式参拝。
ここは和歌山などの熊野大社の大元の場所で、日本の歴史がわかる場所です。

当然今出雲大社と呼ばれる神社よりも格上になるでしょうし、今年話題の伊勢神宮よりずっと前からある神社です。

出雲に伝わる口伝の神話の本も買えます。古事記と読み比べを。

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続いて神魂神社。伊邪那美命を祀っています。出雲大社よりも400年前に建てられたと言われています。

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さらにさらに八重垣神社。
須佐之男命と稲田姫命が結婚したとされる場所。
表史観でいくと須佐之男と出雲族が結びついた地になります。

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最後は須佐之男と稲田姫が最初に宮を構えたとされれ須我神社。
須佐之男が日本で始めて和歌を詠んだ場所でも有名です。

また奥宮の磐座は私でもパワーを感じる場所でした。

ご存知の方も多いと思いますが、私は絶えず全国の神社を回りながら、日本のことを勉強しています。

これは半分趣味で、半分仕事です。

政治家とは政を治める人のこと。

日本において、見えない偉大な力を知らず、それと繋がれない人は政をすることが難しいと私は感じています。

それには古事記や神話を学び、

日本人が何を大切にしてきたのか、

為政者は何をしてきて、戦後何を奪われたか、

を体感したいと思っています。

表先生の話はかなりレベルが高いですが、こうして機会があれば指導を受け、全国を巡礼しながらいろいろ学んでいきたいと思いますわ、

12月7日は13時から梅田で表先生の講演と公開収録をやります。

参拝の作法や日本の神様のこと、日本の成り立ちに興味のある方は、またホームページに詳細アップするのでまたお越し下さい。

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インド視察最終日

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最終日は世界遺産を周りました。

まず最初はオールドデリーから。
かつてムガール帝国の中心地も今はずいぶん荒れていました。

今日はたまたま日曜日で、市が開かれすごい人だかり。やはり12億人はすごい数です。

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17世紀のムガールの要塞ラールキラー。ちょうど日本の江戸時代初期の要塞ですが、規模など日本の城といい勝負です。

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要塞前の大通りチャンドニーチョウク。かつての繁栄はすっかり消えて、中国製品が並ぶ商店街になっていました。

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今日はシーク教のお祭りでターバンの人がわんさか(^_^;)

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16世紀、ムガールの二代皇帝のフマユーン廟。

タージマハルを見たあとではかすみますが、これも世界遺産です。

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1192年に建築が始まったクトゥブ ミーナール。何とかつては100メートルの高さがありました。今は地震で崩れて72.5メートル。地下18メートルまで掘り免震構造をつくっています。

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17世紀別の王が200メートルの凱旋塔を建てようとしましたが、構造上無理とわかって途中で断念しました(^_^;)

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周辺にはイスラムの寺院跡。なんと材料はヒンドゥー教やジャイナ教の寺院を潰して使っています。

インドにはたくさんの占領の歴史があります。占領されたら国の文化や教育が潰されます。

最近では、イギリスがインドを占領し、学校を潰しました。

教育が奪われたツケは今もインドに見られます。

それが世界の歴史なんですね。

日本も占領で大きく変わりましたね。

800年前に100メートルの塔を立てれた先進国が、今は新興国です。

そうして文明は入れかわっていくんですね。

日本の未来はどうなるでしょう。

子孫に恨まれない人生と国づくりをしたいものですね。

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樽本東大阪市議 グレンデールで抗議

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インド視察と重なり一緒に行けませんでしたが、

樽本議員お疲れ様でした。

日本の意向もしっかり主張すべきです。

東大阪市議設置に抗議
グレンデール側、主張譲らず

産経新聞

 【ロサンゼルス=中村将】今年7月、韓国以外で初めて「慰安婦」像が設置された米カリフォルニア州グレンデール市と姉妹都市提携している大阪府東大阪市の樽本丞史市議(45)=自民党=が15日、グレンデール市庁舎で同市の市議らと面会し像設置に抗議した。グレンデール市議らは韓国の主張に沿った歴史認識を重ねて示したという。

 グレンデール市議は計5人。このうち1人が1年ごとに市長を務めている。慰安婦像設置の採決には、ウィーバー市長を除く4人の市議が賛成しており、樽本氏は同日、賛成派の市議2人や市幹部らと面会した。

 関係者によると、樽本氏は、慰安婦像は一方的な情報を受けて設置された▽この間題は国際的な問題で地方行政が関わるべき問題ではない▽像の維持費は姉妹都市などが負担するとしているが、東大阪市は一切同意していないーなどといった内容の抗議文を示した。

 グレンデール市議側は像維持費に東大阪市が同意していないということを受け入れ、ホームページに記載されている内容に「東大阪市は無関係」と分かるようにすると表明したという。

 しかし像設置が決まった当時、市長だったクィンテロ市議は「南京大虐殺」などといった言葉を使って日本の戦争責任に言及するなど、韓国側の主張に沿った認識を繰り返したという。

韓国側意向浸透、強まる市長批判

 グレンデール市議会では、「慰安婦」像の設置に反対したウィーバー市長への非難が強まっている。

 慰安婦設置に関する議題が取り上げられた今月5日の市議会。「正しい歴史を認識し、戦争犯罪の被害を経験した女性を尊重する議員のみなさんに感謝の気持ちでいっぱいだ」。発言を許された韓国系市民とみられる男性はそう言って、続けた。「最近、市長のオフィスや日本のメディアから、市議会が誤ったことをしたような混乱したメッセージが発せられている」

 ウィーバー市長がメディアに対し、「像設置は間違っていた」などと発言したことを問題視したものだ。

 「ウィーバー市長は戦争の悲劇をちゃんと勉強されていないようなので、書類を準備した」と言って、ノートを手に発言する別の男性もいた。

 「韓国コミュニティーに感謝している。この像が市にあることを誇りに思う。戦争の被害者のためにも、歴史を教えることは大切だ」 (フリードマン市議)や「コミュニティーとともに真実と歴史的な公正を守る。日本も同じようにして、謝ってほしい」(シナンヤン市議)といった発言をみれば、市議会に韓国側の意向がどれほど浸透しているかが分かる。「慰安婦像が設置されてから子供の通う学校はぎくしゃくした空気が漂っている」と話す近隣地区の日本人生徒の母親もいる。

 「それまでは仲が良かったグループでも日本系と韓国系に分かれてしまった。韓国系の生徒が竹島のことを『韓国領だ』と突然主張しだしたらしいのですが、日本系は黙っているようです」と心配そうに語った。(中村将)

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アジアの解放を信じて戦った漢

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こんな日本人(台湾人)もいたことを日本の教科書に載せましょう。

大東亜戦争の総括もし、当時の人の思いや

敗戦の原因を考える教育をそろそろやる時期ではないでしょうか?

元日本軍兵士の台湾男性、インドネシア独立の英雄に
【社会】 2013/11/14 18:31

(ジャカルタ 14日 中央社)第二次世界大戦中に日本軍兵士として活躍し、戦後はインドネシア独立のためオランダと戦った台湾の男性が先月亡くなり、このほど同地の英雄墓地に埋葬された。生前は酒井充子監督のドキュメンタリー映画「台湾アイデンティティー」に出演していた。

 この男性は日本統治時代の1922年に台南で生まれた宮原永治さんで、本名は李柏青。太平洋戦争の勃発後に志願して日本軍に入隊、フィリピンやミャンマーなどへ転戦した。

 終戦後は連合軍に投降せず、約900人の戦友とともに当時オランダ領だったインドネシアのゲリラ部隊に参加し宗主国と戦った。

 独立してからもおよそ300人の仲間と同地に留まり、2005年には建国60周年記念式典で同国のユドヨノ大統領から建国の英雄勲章を授与された。外国人として初めての受賞だった。

 生前のインタビューで宮原さんは1974年に一度台湾へ戻ったが、白色テロ全盛の時代もあり、ミャンマーでは国民党軍と一戦を交えたことから身の危険を感じ、両親と顔を合わせたあと、インドネシアにとんぼ返りしたと語っている。

 その後日系人コミュニティーの活動に積極的に参加、日本語を教えるなどし、インドネシアの女性と結婚してから地元国籍を取得、3人の子宝にも恵まれたが、10月16日、ジャカルタの病院で91歳で亡くなった。

 宮原さんはインドネシア独立と建国に貢献したとして国軍のカリバタ英雄墓地に埋葬された。

 これは同国政府の最高の敬意を表すものとされる栄誉で、27歳になる宮原さんの孫は「生前から独立戦争の話を聞かされた。祖父も参加したことを誇りに思っていた」と語った。

宮原永治氏
(台湾名:李柏青、インドネシア名:ウマル・ハルトノ)

1922年(大正11年)台南生まれ。インドネシア・ジャカルタ在住。1940年(昭和15年)、18歳で志願。戦場を転々とし、戦後はインドネシアで過ごす。約千人の日本兵、インドネシアの青年たちとともに、オランダからの独立戦争を戦った。戦後、インドネシア国籍を取得。1970年代に日本企業のジャカルタ支社に就職し、日本出張の際、家族に会うため台湾へ。最初で最後の里帰りとなった。残留日本兵は現在、宮原氏ともうひとりの二人だけ。
映画『台湾アイデンティティー』のキャスト

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