日々の活動やニュースに対する考え、視察の報告などをブログにまとめています。

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神谷宗幣 (かみやソウヘイ)

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台湾にいるので台湾のニュース

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今、台湾で話題になっているニュースを簡単に解説。

この林氏、我々が今週行った金門島の馬山観測所から1979年、中国に逃げました。

しかし、この方、日本でいう防衛大学をトップで卒業したエリート中のエリートで、台湾軍部の期待の星で、

そんな人間が軍事機密を持って亡命したわけで、台湾政府は長い間事実を伏せ、行方不明扱いにしていました。

さすがに世界銀座のチーフエコノミストになった時には、亡命を認めざるを得なくなったようですが、、、。

家族や友人を捨てて亡命するにはどんな理由があったんでしょうか。

国の情報をうるなんて、、

日本では、秘密情報の保護法をつくるだけで、大揉めでしたが、世界はシビアな情報戦をあの手この手でやっています。

過去のことと、看過していてはいけないニュースかもしれませんね。

台湾軍部:中国亡命の林毅夫・世銀前チーフエコノミストへの手配は「有効」
2014年1月14日 12:09 財経新聞

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林毅夫・世界銀行前チーフエコノミスト

台湾メディアによると、台湾軍部は今月13日、1979年に中国本土に亡命した林毅夫・世界銀行前チーフエコノミストへの手配について、現時点でも「有効」だと発表したという。

また、林氏以外の黄植誠氏や林賢順氏など中国本土に亡命した軍関係者や民間人に対しても同様な扱いだと強調した。

なお、林氏を含めた中国本土に亡命した台湾出身者らは近年、親の葬式に参加するなど人道上の理由から一時の帰郷を台湾当局に数回嘆願した。

また、台湾の世論でも人道的配慮を求めていたが、軍部からの許可は得られなかった。台湾軍部は、林氏などの帰郷が可能だが、中国本土への亡命という反逆行為に責任を負う必要があると発言していた。

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台湾研修 四日目 大学生たちと交流

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研修四日目の夜は、

台湾大学の学生さんらを招き食事会。

三人の非常に優秀な学生さん達で、参加者に台湾のことをいろいろ教えてもらいました。

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彼らは、家族の方々も親日で、

小さい時には日本のアニメをみて、

思春期には日本のアイドルやドラマをみて、

大学で日本語や日本文化を学んでくれています。

驚くべきは、日本語をしっかり学んだのは大学からなのに、かなりのレベルの日本語が話せること。

今、彼らの周りの学生の二割が日本語を学んでいて、その比率はあがっているとのことでした!

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彼らのおかげで、参加者の台湾に対する好感度はますます上がり、みんなに台湾のことをより理解して頂けました。

彼らの内、二人は今年日本に留学してくるので、また日本で恩返ししたいと思います。

本当によい交流ができました!

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台湾研修 四日目 義愛公

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台湾南西部の嘉義県の富安宮という廟に「義愛公」と呼ばれ、戦前の日本の警察官の姿をした神様が祀られています。

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この警察官の名は森川清治郎。明治初めの実在の巡査です。

以下森川氏が祀られるようになった経緯。

明治30年(1900年)、森川清治郎は台湾の派出所に着任しました。

以下、日本語解説書より。

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当時の台湾は、各地で盗匪が絶えず出没し、民衆の生活を脅かしていました。環境衛生は劣悪でマラリヤ、ペスト、コレラ等の伝染病が発生しており、医療は未発達。

教育程度も低く、台南においての男子の文盲は9割という状況。

そのような世情の下、森川清治郎巡査は半農半漁の寒村に着任しました。

森川巡査は本来の警察官としての任務に遂行するかたわら、塾をつくり、自費で教師を雇い村民達には無料で読み書きを教えました。

また、衛生改善や農業指導にも尽力。
着任地の村の発展と民の安寧のために働きました。

ある日、怪我をして海中で泣いている村民を見付けました。森川巡査は海に飛び込みその漁師を救助し、そこから2キロほど離れた家まで背負い介抱しました。その後、救助された漁師よりも森川巡査の方が大怪我をしていた事を周囲は知り、森川巡査の義心に感動しました。

また1902年、総督府は漁業税を制定しました。貧しい村びとたちは、税の軽減をお願いできないかと督促の任につく森川巡査に嘆願しました。納税は国民の義務だが、村びとたちの貧苦を誰よりも知っている森川巡査は、上層部に上申しました。

しかし、森川巡査が村民を扇動していると曲解され、戒告処分になります。

村に戻った森川巡査は、村民たちに、悲痛な面持ちで語りました。「税金の事に就いては、自分のカではもうどうすることも出来ない。自分は首クビになってしまった。皆も苦しいだろうが、右の様な事情だから国の為と思って快く税金を納めてくれ、私からもお願いする」。

湧き上がる涙を村びとには見せまいと背を向け、森川巡査は宿舎に戻りました。

村びとと苦楽を共にし、村びとの安寧に尽くした森川巡査の失望の深いものでした。

次の日の朝、森川巡査は拳銃で自決しました。享年42歳。「疑われては弁解の術もない、覚悟する」と書き留められた名刺が一枚、ポケットに残されていました。

森川巡査を敬愛していたた村民たちは、変わり果てた姿の巡査にしがみつき号泣しました。森川巡査は、村びとたちの手によって、村の共同墓地に埋葬されました。

そして、約20年の歳月が経過します。

この地域で伝染病が大流行した大正12年のある日のこと、制服姿の警察官が夢枕に立ち、「衛生状態を改善せよ」と告げると去って行きました。

そのお告げは村に広まり、間も無く、村の伝染病はおさまりました。

村びとたちは、自分たちの親や祖父母に心から尽くしてくれた森川巡査が、死後も自分たちを護ってくれていることを心から感謝しました。

そして巡査の制服姿の神像を作り、富安宮という廟に「義愛公」と呼んでお祀りしました。

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そんな森川さんが神として祀られる富安宮を皆で参拝。

村長さんがわざわざお出迎えくださり、なんと神様を開帳して下さいました。

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実は今の廟は仮のもので、本体は立て替え中。

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今回訪れた寺院の中で一番豪華な建築物で、村長の好意で中を見学させて頂きました。

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なんとそこには龍馬(麒麟)が((((;゚Д゚)))))))

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壁には三国志のストーリーが描かれていました。

地域の方の想いで支えられるお寺に、
日本人が祀られているのは、本当に有難いです。

台湾人は本当に信心深いな、と感じる一日でした。

「恩」を大切にする国民性と聞いてます。

それは、3.11の時にも感じましたね。

我々も忘れないようにしましょう。

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台湾研修 四日目 八田與一と烏頭山ダム

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午後はアジア最大のダムといわれた烏山ダムを視察。
これをつくったのが金沢出身の八田與一氏。

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八田 與一(1886年2月21日 – 1942年5月8日)は、日本の水利技術者。

ダムと嘉南大圳についてウェキペディアより。

1918年(大正7年)、八田は台湾南部の嘉南平野の調査を行った。嘉義・台南両庁域も同平野の区域に入るほど、嘉南平野は台湾の中では広い面積を持っていたが、灌漑設備が不十分であるためにこの地域にある15万ヘクタールほどある田畑は常に旱魃の危険にさらされていた。そこで八田は民政長官下村海南の一任の下、官田渓の水をせき止め、さらに隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を上司に提出し、さらに精査したうえで国会に提出され、認められた。事業は受益者が「官田渓埤圳組合(のち嘉南大圳組合)」を結成して施行し、半額を国費で賄うこととなった。このため八田は国家公務員の立場を進んで捨て、この組合付き技師となり、1920年(大正9年)から1930年(昭和5年)まで、完成に至るまで工事を指揮した。そして総工費5,400万円を要した工事は、満水面積1000ha、有効貯水量1億5,000万m3の大貯水池・烏山頭ダムとして完成し、また水路も嘉南平野一帯に16,000kmにわたって細かくはりめぐらされた。この水利設備全体が嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれている。

今の価値にして約5000億円規模の大事業。
地球半周分の水路をつくり、灌漑事業をするなんて、当時の日本はスケールがでかい。

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晩年と奥さんについて。

太平洋戦争中の1942年(昭和17年)5月、陸軍の命令によって3人の部下と共に大洋丸に乗船した與一は、フィリピンの綿作灌漑調査のため広島県宇品港で乗船、出港したが、その途中、大洋丸が五島列島付近でアメリカ海軍の潜水艦に撃沈され、八田自身も死亡した。沒後贈正四位勲三等。

日本敗戦後の1945年(昭和20年)9月1日、外代樹も夫の後を追うようにして烏山頭ダムの放水口に投身自殺した。

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ここがその放水口です。
悲しく美しいお話(T_T)

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視察はまず八田與一記念館でビデオ学習。

ダムの意義や八田さんの功績について学びます。

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続いてお墓参り。七年前より綺麗に整備されていました。

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最後は2011年に整備された八田與一記念公園に。

八田さんを含めた四人の技師の当時の家を二億の予算をかけて、復元整備。

当時、予算についての反対は一切なかったそうです。それだけ八田さんが尊敬されているということかと思います。

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このダムや公園全体を世界遺産にしようという動きもありますが、

実は裏話もあり、国民党の馬英九総統が二期目の選挙をにらみ、自身の中国よりの立場の批判をかわすために、親日派が喜ぶ事業としてすすめた整備でもあるとのこと。

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八田さんの業績はアニメにもなっていますので、見られたことのない方は是非ご覧下さい。

海外で知られている日本の偉人のことを日本人が知らないのは、恥ずかしいですからね。

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台湾研修 四日目 飛虎将軍

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四日目のスタートは、台南の鎮安堂に飛虎将軍を参拝。

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垂幕を下げて歓迎して頂きました。

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ウェキペディアより

飛虎将軍廟、正式名称鎮安堂飛虎将軍廟は、民間信仰の廟で日本軍人が神として祀られている。

1944年台湾で日本海軍の兵曹長であった杉浦茂峰は、台湾沖航空戦に出撃。10月12日午前、台南上空でアメリカ空軍を迎え撃つも撃墜され畑の中に落ちて戦死した。軍靴には「杉浦」と書かれていて、その後航空隊分隊長の森山敏夫大尉の協力で、この飛行士が「杉浦茂峰」と判明。

第二次世界大戦後、村のあちこちで不思議な夢を見たという噂が広まった。白い帽子と服を着た日本の若い海軍士官が枕元に立っているという夢を見たという者が、皆に話したら、同じ夢を見たという者が数名名乗りでた。その後部落の有志が集まり、その海軍士官が部落を戦火から救うために、自分の生命を犠牲にしたことが判明。そして1971年、杉浦茂峰を祀るためにこの廟を建設した。

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このストーリーは漫画にもなって配布されています。

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みんなで参拝し、お守りも頂きました。

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中には日本の国旗や戦闘機の模型も。

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これはあの世で使えるお金です。

燃やしてあの世に送ります。

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我々が参っている最中も地元の方が、参拝に来られてました。

日本人が神様になっている施設が地元の方の思いで運営維持されている姿は日本人としてありがたいです。