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神谷宗幣 (かみやソウヘイ)
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台湾研修 四日目 八田與一と烏頭山ダム

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午後はアジア最大のダムといわれた烏山ダムを視察。
これをつくったのが金沢出身の八田與一氏。

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八田 與一(1886年2月21日 – 1942年5月8日)は、日本の水利技術者。

ダムと嘉南大圳についてウェキペディアより。

1918年(大正7年)、八田は台湾南部の嘉南平野の調査を行った。嘉義・台南両庁域も同平野の区域に入るほど、嘉南平野は台湾の中では広い面積を持っていたが、灌漑設備が不十分であるためにこの地域にある15万ヘクタールほどある田畑は常に旱魃の危険にさらされていた。そこで八田は民政長官下村海南の一任の下、官田渓の水をせき止め、さらに隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を上司に提出し、さらに精査したうえで国会に提出され、認められた。事業は受益者が「官田渓埤圳組合(のち嘉南大圳組合)」を結成して施行し、半額を国費で賄うこととなった。このため八田は国家公務員の立場を進んで捨て、この組合付き技師となり、1920年(大正9年)から1930年(昭和5年)まで、完成に至るまで工事を指揮した。そして総工費5,400万円を要した工事は、満水面積1000ha、有効貯水量1億5,000万m3の大貯水池・烏山頭ダムとして完成し、また水路も嘉南平野一帯に16,000kmにわたって細かくはりめぐらされた。この水利設備全体が嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれている。

今の価値にして約5000億円規模の大事業。
地球半周分の水路をつくり、灌漑事業をするなんて、当時の日本はスケールがでかい。

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晩年と奥さんについて。

太平洋戦争中の1942年(昭和17年)5月、陸軍の命令によって3人の部下と共に大洋丸に乗船した與一は、フィリピンの綿作灌漑調査のため広島県宇品港で乗船、出港したが、その途中、大洋丸が五島列島付近でアメリカ海軍の潜水艦に撃沈され、八田自身も死亡した。沒後贈正四位勲三等。

日本敗戦後の1945年(昭和20年)9月1日、外代樹も夫の後を追うようにして烏山頭ダムの放水口に投身自殺した。

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ここがその放水口です。
悲しく美しいお話(T_T)

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視察はまず八田與一記念館でビデオ学習。

ダムの意義や八田さんの功績について学びます。

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続いてお墓参り。七年前より綺麗に整備されていました。

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最後は2011年に整備された八田與一記念公園に。

八田さんを含めた四人の技師の当時の家を二億の予算をかけて、復元整備。

当時、予算についての反対は一切なかったそうです。それだけ八田さんが尊敬されているということかと思います。

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このダムや公園全体を世界遺産にしようという動きもありますが、

実は裏話もあり、国民党の馬英九総統が二期目の選挙をにらみ、自身の中国よりの立場の批判をかわすために、親日派が喜ぶ事業としてすすめた整備でもあるとのこと。

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八田さんの業績はアニメにもなっていますので、見られたことのない方は是非ご覧下さい。

海外で知られている日本の偉人のことを日本人が知らないのは、恥ずかしいですからね。

iPhoneからの投稿

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