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台湾研修 五日目 研修と懇談

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台湾研修最後の締めくくり。

夕方からは、元練馬区議で現在は台湾大学で研究と、台湾でのビジネスをしておられる野崎孝雄氏に講話をお願いしました。

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台湾の経済と日本人の経済活動について、以下のようなお話。

三年前くらいから台湾に進出する日本企業が増えた。

その理由は円安と震災後の台湾人の日本に対する協力であると考える。

台湾の経済は、昨年 過去最高の商業売り上げをあげ、物価は上がったているが、株価は上がらないこれは日本を含めた外資の経済活動が盛んになったことを表していると考える。

台湾人は、 人情があるが、会社に対してはドライである。

大卒初任給は10万円程度で、条件が良ければ転職は繰り返すし、社会もそれを許容している。

台湾人は、 英語、中国語、日本語を使いこなせる人材も多く、海外では日本人を雇うよりニーズが高い。

台湾は政府もかなり観光業にちからをいれている。

昨年、日本に来た外国の観光客は、1000万人。内台湾人200万人。

昨年、台湾に来た外国の観光客は、
800万人。内日本人140万人。

人口2300万人で九州ほどの大きさしかない台湾に日本は観光では負けているといっていい数字。

台湾は言葉の壁をなくすよう、あらゆる場面で政府が力を入れている。
日本も見習うべきではないか。

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書けない話もたくさんありますが、台湾のコアな情報をたくさん頂きました。

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夜の食事会には、台湾の外交部から羅秘書長らにご参加頂きました。

外交部とは日本の外務省にあたるもので、羅氏は日本では公使のようなお仕事をされていた方です。

羅氏からは、EEZや経済、観光、文化、地方自治体との交流のお話を頂きました。

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意見交換の中では、
外交部の若手の方から衝撃の事実が、、

今の台湾の十代では、日本のサブカルチャーより韓国のサブカルチャーが人気があることを聞いてしまいました。

韓国は国策でやってますからね。

日本ももっと考えねば、、

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最後の晩餐は、野崎氏や外交部の皆さんのおかげで実り多いものになりました。

謝謝^_^

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台湾研修 五日目 歴史と観光

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今朝は228記念公園にいき、228事件の解説を聞きました。

皆さんは228事件ご存知ですか?

226事件ではありませんf^_^;)

二・二八事件 ウェキペディアより

1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、当時はまだ日本国籍を有していた本省人(台湾人)と外省人(在台中国人)との大規模な抗争。約40年後、戒厳令の終了と政府側の遺族への謝罪によりようやく終結した。

1947年2月27日、台北市で闇菸草を販売していた本省人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。これが発端となって、翌2月28日には本省人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊がこれに発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。本省人は多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大陸から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧した。

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この事件は台湾の現代史で必ずおさえねばならない事件です。

台湾人が親日になる一つのきっかけではないかとすら私は思います。

当時の台湾人たちは、「犬去りて、豚来たる(中国語:狗去豬來)」(意味:犬〔日本人〕はうるさくても役に立つが、豚〔国民党〕はただ貪り食うのみ)と揶揄したくらいで、外省人と本省人の対立はいまでも続いています。

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中正記念堂。蒋介石の業績を伝える施設ですが、今は歴代総統をみんな入れていこうかという議論があるそうです。

賛成!

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総統府では中に入り、日本語の上手な方に日本統治時代の歴史を教えて頂きました。

当時も簡単に平定できたわけではなさそうです。

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午後は九份に移動し、昭和天皇が皇太子時代にこられ、滞在された屋敷を見学。

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今日はいつも雨の九份が晴れていて不思議な感じでした。

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後ろの建物は千と千尋の神隠しで湯婆ばの屋敷のモデルになったもの。

かつての遊廓です。

昔の九份は金の鉱山。命をかけて働く男が遊ぶ場所が、今は観光客のティースポット。

変われば変わるものです。

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私も芋ぜんざいを頂き、ホッと一息。

夕方からは勉強会と会食です。

ラストスパート。

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台湾にいるので台湾のニュース

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今、台湾で話題になっているニュースを簡単に解説。

この林氏、我々が今週行った金門島の馬山観測所から1979年、中国に逃げました。

しかし、この方、日本でいう防衛大学をトップで卒業したエリート中のエリートで、台湾軍部の期待の星で、

そんな人間が軍事機密を持って亡命したわけで、台湾政府は長い間事実を伏せ、行方不明扱いにしていました。

さすがに世界銀座のチーフエコノミストになった時には、亡命を認めざるを得なくなったようですが、、、。

家族や友人を捨てて亡命するにはどんな理由があったんでしょうか。

国の情報をうるなんて、、

日本では、秘密情報の保護法をつくるだけで、大揉めでしたが、世界はシビアな情報戦をあの手この手でやっています。

過去のことと、看過していてはいけないニュースかもしれませんね。

台湾軍部:中国亡命の林毅夫・世銀前チーフエコノミストへの手配は「有効」
2014年1月14日 12:09 財経新聞

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林毅夫・世界銀行前チーフエコノミスト

台湾メディアによると、台湾軍部は今月13日、1979年に中国本土に亡命した林毅夫・世界銀行前チーフエコノミストへの手配について、現時点でも「有効」だと発表したという。

また、林氏以外の黄植誠氏や林賢順氏など中国本土に亡命した軍関係者や民間人に対しても同様な扱いだと強調した。

なお、林氏を含めた中国本土に亡命した台湾出身者らは近年、親の葬式に参加するなど人道上の理由から一時の帰郷を台湾当局に数回嘆願した。

また、台湾の世論でも人道的配慮を求めていたが、軍部からの許可は得られなかった。台湾軍部は、林氏などの帰郷が可能だが、中国本土への亡命という反逆行為に責任を負う必要があると発言していた。

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台湾研修 四日目 大学生たちと交流

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研修四日目の夜は、

台湾大学の学生さんらを招き食事会。

三人の非常に優秀な学生さん達で、参加者に台湾のことをいろいろ教えてもらいました。

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彼らは、家族の方々も親日で、

小さい時には日本のアニメをみて、

思春期には日本のアイドルやドラマをみて、

大学で日本語や日本文化を学んでくれています。

驚くべきは、日本語をしっかり学んだのは大学からなのに、かなりのレベルの日本語が話せること。

今、彼らの周りの学生の二割が日本語を学んでいて、その比率はあがっているとのことでした!

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彼らのおかげで、参加者の台湾に対する好感度はますます上がり、みんなに台湾のことをより理解して頂けました。

彼らの内、二人は今年日本に留学してくるので、また日本で恩返ししたいと思います。

本当によい交流ができました!

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台湾研修 四日目 義愛公

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台湾南西部の嘉義県の富安宮という廟に「義愛公」と呼ばれ、戦前の日本の警察官の姿をした神様が祀られています。

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この警察官の名は森川清治郎。明治初めの実在の巡査です。

以下森川氏が祀られるようになった経緯。

明治30年(1900年)、森川清治郎は台湾の派出所に着任しました。

以下、日本語解説書より。

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当時の台湾は、各地で盗匪が絶えず出没し、民衆の生活を脅かしていました。環境衛生は劣悪でマラリヤ、ペスト、コレラ等の伝染病が発生しており、医療は未発達。

教育程度も低く、台南においての男子の文盲は9割という状況。

そのような世情の下、森川清治郎巡査は半農半漁の寒村に着任しました。

森川巡査は本来の警察官としての任務に遂行するかたわら、塾をつくり、自費で教師を雇い村民達には無料で読み書きを教えました。

また、衛生改善や農業指導にも尽力。
着任地の村の発展と民の安寧のために働きました。

ある日、怪我をして海中で泣いている村民を見付けました。森川巡査は海に飛び込みその漁師を救助し、そこから2キロほど離れた家まで背負い介抱しました。その後、救助された漁師よりも森川巡査の方が大怪我をしていた事を周囲は知り、森川巡査の義心に感動しました。

また1902年、総督府は漁業税を制定しました。貧しい村びとたちは、税の軽減をお願いできないかと督促の任につく森川巡査に嘆願しました。納税は国民の義務だが、村びとたちの貧苦を誰よりも知っている森川巡査は、上層部に上申しました。

しかし、森川巡査が村民を扇動していると曲解され、戒告処分になります。

村に戻った森川巡査は、村民たちに、悲痛な面持ちで語りました。「税金の事に就いては、自分のカではもうどうすることも出来ない。自分は首クビになってしまった。皆も苦しいだろうが、右の様な事情だから国の為と思って快く税金を納めてくれ、私からもお願いする」。

湧き上がる涙を村びとには見せまいと背を向け、森川巡査は宿舎に戻りました。

村びとと苦楽を共にし、村びとの安寧に尽くした森川巡査の失望の深いものでした。

次の日の朝、森川巡査は拳銃で自決しました。享年42歳。「疑われては弁解の術もない、覚悟する」と書き留められた名刺が一枚、ポケットに残されていました。

森川巡査を敬愛していたた村民たちは、変わり果てた姿の巡査にしがみつき号泣しました。森川巡査は、村びとたちの手によって、村の共同墓地に埋葬されました。

そして、約20年の歳月が経過します。

この地域で伝染病が大流行した大正12年のある日のこと、制服姿の警察官が夢枕に立ち、「衛生状態を改善せよ」と告げると去って行きました。

そのお告げは村に広まり、間も無く、村の伝染病はおさまりました。

村びとたちは、自分たちの親や祖父母に心から尽くしてくれた森川巡査が、死後も自分たちを護ってくれていることを心から感謝しました。

そして巡査の制服姿の神像を作り、富安宮という廟に「義愛公」と呼んでお祀りしました。

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そんな森川さんが神として祀られる富安宮を皆で参拝。

村長さんがわざわざお出迎えくださり、なんと神様を開帳して下さいました。

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実は今の廟は仮のもので、本体は立て替え中。

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今回訪れた寺院の中で一番豪華な建築物で、村長の好意で中を見学させて頂きました。

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なんとそこには龍馬(麒麟)が((((;゚Д゚)))))))

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壁には三国志のストーリーが描かれていました。

地域の方の想いで支えられるお寺に、
日本人が祀られているのは、本当に有難いです。

台湾人は本当に信心深いな、と感じる一日でした。

「恩」を大切にする国民性と聞いてます。

それは、3.11の時にも感じましたね。

我々も忘れないようにしましょう。

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