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神谷宗幣 (かみやソウヘイ)
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「失われた道徳心」が中国の国家的問題に

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以下のニュースは対岸の火事とみてはいられない。

日本も今のままでは道徳なき国になると私は感じます。

中国を視察した時も、学校の先生方が日本人の道徳心はどうして形成されるのかと、

しきりに聞いておられました、、、。

教育を見直さないと、
日本人が外国の方に教わることになります。

「失われた道徳心」が中国の国家的問題に
経済成長を追いすぎた弊害に中国人も危機感

姫田 小夏 Konatsu Himeda

2012.04.03(火)JB PRESS

3月13日、中国で人民政治協商会議の第11期全国委員会第5回会議が閉幕した。バブルの絶頂期を経た中国は、今、新たな時代を迎えつつある。
 政策の軸足は「民」の生活へと移り変わろうとしている。今まで陽の当たらなかった「民」の声を拾うようにと、会議は8つの問題点を取り上げた。

 (1)住宅価格と固定資産税改革、(2)物価、(3)収入格差、(4)“老三難”と言われる教育、医療、失業問題、(5)食品の安全性、(6)スクールバスの安全性、(7)ミニブログと社会の管理、(8)道徳心の喪失、がそれである。

 今、13億の国民の不満はここに集中している。

倒れている人を助けない中国社会

 この中で興味深いのは最後の「道徳心の喪失」だ。「道徳心の喪失」はここに来て浮上してきた新しい社会問題である。上海でも社会道徳の欠如を嘆く声が日増しに強まっており、中国政府もまたこれを重視している。

 2011年10月の広東省広州市で起きた「悦悦ちゃん」の“見殺し事件”は、当局も深刻な問題と受け止めている。これは、2歳女児の悦悦ちゃんが車に轢かれて路上に血を流して仰向けになっているのを、18人が見て見ぬふりで通り過ぎ、ようやく19人目が通報したという事件だ。

 筆者にも同様の経験がある。上海の路上で女性が倒れているのを目撃した。周りに人垣ができていたものの、誰も手を差し伸べようとしない。

 筆者自身がどうだったかと言えば、実は正直怖かった。差し伸べた手をグイと引き寄せられ、お前が押し倒した、医療費を払えと絡まれたらどうしようか、という不安感があったのだ。通り過ぎる中国人も同じ心境だったに違いない。道徳的であろうとすると、しっぺ返しを喰らう──中国人の間にはそんな共通認識が出来上がっている。

 中国では最近、この10年の飛躍的な経済成長の功罪が問われている。世界第2位の経済大国にのし上がったものの、それはあまりにも急激で、かつ無理のある発展であった。その代償として失われたものこそが、「国民の道徳心」だった。

13億人の中で何人の善人がいるのか

 「冬の寒空に川に落ちた子どもを助けたのは、80歳近い老人だったんだって」

 「周りはみんな黙って見物してたんだよ。世の中一体どうなってるんだろうね」

お昼の井戸端会議。上海の主婦2人が「中国人の善良さ」について話をしている。子供を救助するために川に飛び込んだ老人の話を、主婦の1人が持ち出した。

 どこの国でも、いい人もいれば悪い人もいる。中国もまた同じだ。善人もいれば、そうでない者もいる。それにしても最近の中国はひどすぎる、と彼女は言う。2人とも、「中国にはこれだけ多くの人がいるのに、善人は減った」という点で意見が一致した。

 ところで、上海では昨今異常なほどのペットブームだ。それは道端に転がるフンの急増を見ても分かる。

 小動物へ向ける愛情の裏にあるのは、単なる「血統書付きを飼うことの見栄」だけかと思ったらそうでもない。ある愛犬家は次のように言い放つ。「なぜ犬を飼うかって? 犬は人間を裏切らないからだよ」

 もともと中国人は容易に他人を信じる方ではない。だが、この一言からは、近年ことさら疑心暗鬼になる中国人の疲れた心が垣間見える。

「ひどい苦労もしたが、あの時代は人間が純粋だった」

 上海市揚浦区に住む51歳の李さん(仮名)は、上海市の定めた最低賃金で働く労働者だ。持ち前の真面目さゆえに「いつも損ばかりしている」と自嘲しながら、今の上海社会をこう見通している。

 「中国で今尊敬されるのは、“金持ち”だ。金持ちになった過程も人格も問われない」

 鄧小平の提唱した改革開放路線で市場経済が導入されると、集団主義が見直され、「私」が認められるようになった。ここで言う「私」は「個人として財産を持つ権利」だが、この部分だけが完全に一人歩きをしてしまった。その結果、三十余年経った中国社会は、「自分さえよければ」「金さえあれば」という極端な世の中となってしまった。

 李さんは「毛沢東時代」と「鄧小平時代」の両方を見てきた。その李さん曰く、「『中国は特色ある社会主義だ』といってもそれは建前で、実質的には資本主義だ。しかも、この中国版資本主義はあまりにも行き過ぎている。毛沢東の時代はひどい苦労もしたが、あの時代は人間が純粋だった」。

 毛沢東時代は決して肯定できないが、と前置きしつつ、「それでも人の善意があったし、高潔な人物もいた」とする声は李さんだけにとどまらない。「人としてどうあるべきか」を、まだ尊重できる社会だったのだ。

儒教に走る経営者たち

 「善意」が失われた社会に抵抗し、もっと道徳心を取り戻そうという動きもある。中国人経営者の間で儒教ブームが起きているのは、その表れだろう。

上海郊外で工場向けに食堂を経営する林さん(仮名)は儒教に傾倒する1人だ。「儒教の専門書をひもとくと実に胸がすく思いだ。儒教には、自分を正しくしてこそ家庭や会社を正しい方向に導くことができる、という意味の言葉がある。実にいい言葉だ」と話す。

 儒教の教えを経営に生かそうとする人も少なくない。別の経営者はこうコメントする。「採用の面接では、あなたはどんな親孝行をしているかを尋ねています。家族を大事にする社員は、会社も大事にしてくれるからです」

 ストイックな仏教徒も出現している。

 筆者はある食事会で円卓を囲んだとき、隣に座った中国人の施さん(仮名、外資系企業職員)がほとんど箸を動かさないことに気づいた。施さんは他人の料理を取り分けてあげることに忙しい。自分の食事より他人の世話をすることに熱心な中国人に、筆者は初めて出会った。

 施さんのために肉料理を取って皿に盛ってあげようとするとやんわりと断られた。「自分は素食だから」と言う。施さんは敬虔な仏教徒だったのだ。

 次の瞬間、同時に同じテーブルに座っていた人々の好奇の

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