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神谷宗幣 (かみやソウヘイ)
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伊藤哲夫氏「教育勅語の真実」講演をきいて 文責 横山浩

スタッフブログ |

伊藤哲夫氏「教育勅語の真実」講演をきいて   文責 横山 浩(神谷インターン9期生)

ご無沙汰しております。9期インターン生の横山です。

今回は3月17日に拝聴させていただいた伊藤哲夫氏による
「教育勅語の真実」というテーマでの講演について、講演内容
およびそれに対する個人的な感想を、報告させていただきます。

【講演内容】

1.被災地について

被災地のがれき処理には100年かかります。にもかかわらず、受け入れ先が依然として、

問題となっているのは日本国民としての同胞意識がかけているからです。

これは国家間の欠落を意味する。

われわれ1人1人が日本人としてのよき心を取り戻さなければなりません。

もっとも、被災地復興に関しその片鱗はみられました。不良も暴走族も解散してボランティアに

参加し、また被災者は限られた物資を奪い合わず、むしろ弱者に食料をわけあたえ、日本全国から

たくさんのボランティアが参加し、支援物資がおくられました。

このような状況は他国ではまず見られません。

このような男女とわず、「公の役に立ちたい」という意思で活動する精神、つまり教育勅語の精神

である「義勇奉公」の精神を持つ人々がいたことに少なからず安心します。

2.教育勅語について

では、このような教育勅語はいかにしてつくられたのでしょうか。

そもそも、開国した明治時代は精神的基盤喪失の危機でした。

開国後、海外視察を行った日本政府は「殖産興業」、「富国強兵」の必要性を強く認識し、

それを実現するべく新しい教科書による教育を実行しました。その教科書というのは日本独自の

ものではなく、国語の教科書をイギリスの本、道徳の教科書をアメリカの道徳本としました。

また、地方各地の学校視察の際には、

英語のスピーチばかりが行われ、その学生は英語のスピーチをするがその日本語の意味を

答えられないというありさまでした。

このような教育政策ゆえに人々は日本人としての良き心を失いつつあり、精神的に混乱していた。

このような状況に明治天皇は「これでよいのか、彼らは日本人だぞ」と深くご憂念なされました。

開国から20年以上も経ってしまった明治20年代に「教育において徳育があまりにおろそかに

なっており、本末転倒である」として徳育確立を求めた地方長官会議の問題提起がなされました。

その心が陛下にも届き、井上毅に教育勅語の作成を命ざれました。

教育勅語は各人の内心の自由を守るべきだという陛下のご配慮の下、

①内容は各宗教をこえたもの

②形式は命令ではなく陛下のお心を示したお手紙というものということでした。

では、その「徳」はどこからきたのでしょうか。起草者は徳育教育としては

すばらしい徳から学ぶべきと考え、それは徳の高い歴史、つまり、歴代天皇が

守り続けていた徳から学ぶべきと考えました。

その学ぶべきものの中には日本国学における「しらすの精神」があります。

民の利益、幸せを知らなければならない。そして、その民衆に心をよせ、祈らなければならない。

これが「しらすの精神」であり、陛下の徳であります。

日本国は天皇の徳により成立しています。

ゆえに、日本国民は「徳」に感謝しなければなりません。

そして、この「徳」を教えるのが教育勅語でした。この教育勅語の教えを受けた戦前の人たちには、

それゆえに心の芯がありました。戦後の人たちも心の芯を学ぶべく教育勅語を学んでほしい。

そして、政治家は天皇陛下の徳をうけて政治をしてほしい。

【本講演を通じての私の感想】

私は恥ずかしながら、明治時代の日本人に上記のような精神的混乱が生じていたとは

知りませんでした。

そして、本講演を通じて、明治時代初期は西洋化教育による日本人の精神的支柱の喪失と

いう点で現代の日本と通じるものがあるのではないかとおもいます。

私の周囲の多くは今春から社会人として企業や役所に就職します。

彼らに「なぜその就職先を選んだのか」と聞くと、多くが「福利厚生がしっかりしている」

「大企業だから」という自身の安定を理由としている旨の返答をします。

「将来、起業したいから」や「~という活動を通じて社会に貢献したい」

という旨の返答をする友人は少数です。

(もしかしたら、社会貢献や起業といった夢を話すことが恥ずかしくていえないだけかもしれません)

これが意味するのは公に奉仕する精神、「徳」の精神を失いつつあるのではないかと思います。

インターネットによる情報の錯乱、そして、それに伴う価値観の多様化により、私も含め多くの若者が

「何を基準に物事の良し悪しを判断すればいいのだろうか」と悩み、なんとなく多数派の意見を自分の

意見にしているような気がします。そこに自分なりの考えがないのも自身に精神的支柱がないからでは

ないでしょうか。

今の若者は戦後初期の人が有していた経済成長といった目標もなく、なにを基準に物事を判断すればよいのか

わかりません。しかし、人は生きる上で様々な物事を判断しなければなりません。

そこで、とりあえず自分のわかる範囲、自分のことだけを考えて判断します。

それが上記のような自分のことだけを考えた職業選びになってしまうのだと思います。

このような状況において、義勇奉公を大切にする教育勅語が果たす働きは大きく、これを学ぶことで家族、

地域、国といった単位で物事を考えられるようになると私は本講演を通じて思いました。

文責 横山 浩(神谷インターン9期生)

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